調査記録
2002/06/29
- 以前に古川登師彦氏にお願いしていた曲をアップしました。
- 古川様ありがとうございました。
2001/07/17
- 藤樹女学校平面図追加
- 藤樹女学校の校歌の曲をMIDI変換依頼する
2001/07/13
- 安曇川町にあったといわれる、家政科の女子高校は、やはり存在した。(7/10参照)
- 安曇川町役場社会教育課高城氏がお詳しくその名前は、「町立家政女学校」と言うらしい。昭和45年くらいまで存在したらしい。
- 直接、藤樹女学校とは関係はないが「安曇川町に「町立の女学校」があったことは、新しい発見である。安曇川町史にも掲載されていない。
- 同氏より卒業生前川様をご紹介いただく。
- 前川様のお宅へ訪問快くお話を頂戴した。
2001/7/12
- 前出の西川さん宅へ訪問
- 考経の習字本・卒業アルバム・当時のスナップを拝見する(後日掲載予定)
- 校章は、後輩へ譲られたの事
- いまでも、同窓会を開催されているとか。だんだん数が少なくなっている事を残念がられていた。
- 新旭町在住の古川さんの息子さんより「うちの母親も藤樹女学校出身。一時校章を探している」との事。一度お邪魔させていただきたくお願いする。快く承諾いただく。
- 「いつの日か、校章を作り卒業生の方々へお配りしたい」と、思う
- 高島町史を読んでみて、藤樹女学校の設立の経緯が載っていた。町史だけあってなかなかしっかり記入してあった。が、それはあくまで歴史的背景での藤樹女学校であり、私の思っているような事は、あまり載っていなかった。ホームページに掲載済み
2001/7/11
- 安曇川町役場まちづくり推進課へおうかがいし、昨日の藤樹なにがしの学校の件をお聞きする。
- 詳しい話はわからなかったが、存在はしていたらしい。
- 旧役場職員長陽氏が詳しいとのこと(馬場氏よりの情報)後日お伺いしてみたい。
2001/7/10
- 安曇川町に昭和40年代に「藤樹」とつく学校が存在していた。洋裁関連(家政科か?) 場所は、現在の役場の前あたり(中村氏)
- 確かに存在していた、「町立藤樹女学校」らしい。家政科のみがあった。現在の安曇川高校(安曇川町)が、高島高校(今津町)の分校として設立されたときに、そちらへ家政科として統合された?(小宮氏)
2001/06/29
- 昨日お聞きした高島中学校あたりへ行ってみた。
- 何も残っていなかった。
- たまたま、円光寺住職・高島中学校校長先生・教頭先生よりお話を聞かさせていただいた。
- 円光寺住職(三宅氏)よりお話を聞く
- 藤樹女学校は、昭和24年に廃校。その後町立家政女学校?として使用していた。
- 昭和45年頃現在の中学校に建て替えられる。
- 藤樹女学校校舎はそれまで高島中学校が使用していた
- 高島中学校校長先生よりお話を聞く
- 石田校長先生のお母様は藤樹女学校出身。
- 現在残っているのは玄関前のヒマラヤ杉のみ。それ以外は何もない
- 中江藤樹逸話の「馬子の話」の和迩の宿は「木下屋」ではなかろうか?
- 高島中学校教頭先生よりお話を聞く
- 梅辻教頭先生は、高島町出身で高島中学校卒業だった。旧の校舎(藤樹女学校の建物)より卒業した。
- 先生のお母様も藤樹女学校出身であった。
2001/6/28
- 今津在住 古谷さんにお話を聞く
- 当時の校長先生の中江勝(すぐる)先生は中江藤樹の子孫らしい
- 祈りの鐘があり下校中にその鐘が鳴ったときは立ち止まり黙礼をしていた。
- 裁縫室で「考経」を読む。読み終えるまで帰してもらえなかった
- 食事の前後に何かを(いただきます・ごちそうさま以外)言ってから食事をした。
- 中庭に聖徳太子が奉ってあった
- 今津在住 西川さんにお話を聞く
- 戦争中のこともあり校章がもらえなかった。姉がいる人は姉から譲ってもらっていた
- 昭和15年近江神宮の建設の手伝いに行った。おもに「土運び」「地ならしの手伝い」
- 昭和15年「近江神宮」竣工式に出席する
- 松本懿義[よしい]先生(初代校長先生)は、藤樹先生みたいな人だった。
- 井田じんのすけ先生は、「考経」の本を読みやすく本にしてくださった。
- 勉強は、主に習字・農業・裁縫・お作法(お茶・花)・和裁・洋裁を習った。
- 学校の場所は、高島町音羽あたりだろう
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