大溝町立実科高等女学校の開校
 一方、女子教育については、昭和2年4月1日、大溝尋常高等小学校に大溝町立実科高等女学校が町民の負担で付設開校された。それも、湖西唯一の城下町を自負し、繁栄を続けてきた大溝町が衰微し、郡内の政治経済の中心が今津町に移っていたため、大正9年4月、県立今津中学校が今津町に開校(設立費25万円)されたことから、文教の町大溝の面目にかけても女子中等教育機関を大溝へという町民の意識に支えられてのことであった。
 女学校初代校長は、同小学校長上原勝太郎が兼任し、教員の大半も小学校の兼務であったが、郡内小学校高等科から2年編入の42名、尋常科卒業の1年生31名の計73名の入学生があり、和服に袴[はかま]、編[あみ]上げ靴といった制服姿の女子学生が誕生したのである。初代の上原校長は、中江藤樹の学風を持って質実剛健を校訓に、女子教育の発展に努めたため、近村からは自転車で、また遠くの生徒は間借りや寄宿生活によって通学した。
 しかし、昭和の初頭は、世界恐慌の影響によって深刻な経済状態におちいったことから、農村の窮乏は著しく、中等学校への進学者は激減し、受験地獄は全く昔物語になったという状況をみたのである。したがって、県立学校はもとより、実科高等女学校においても、昭和5年度は定員50名に対してわずか15名の志願者しかなく、さらに翌6年度は激減することが確実となったため、父兄が1名ずつの志願者を引き受けることを申し合せたという。


 藤樹女学校の開校
 志願者の激減は、町立女学校の維持運営を困難にしていった。そうした学校運営の困難が原因となってか、同6年、女学校の県立移管が県会に提案された。県立移管については大溝町出身の前田節[ただす]・上原茂次[しげじ]両県議が活躍し、5年後の昭和11年4月1日、県立藤樹実科高等女学校が誕生し、初代校長に藤樹研究家の松本懿義[よしい]が就任した。
 やがて12年11月3日、新校舎が山の手(現高島中学校)に完成し、同居先の小学校から移転、名実ともに中江藤樹の学風を基本とする徳育中心の女学校として、県下に異色の学園となった。県立に移管したとはいえ、当町とは深い因縁によって生まれた経緯もあり、親密な感情をもって町民と深く結びついていた。その後、15年(1940)3月には藤樹高等女学校と改称され定員200名に、18年には400名、二十年には600名と発展していったが、次第に戦争の荒波に巻き込まれることになった。
 なお昭和16年4月1目、初代校長松本懿義の京都府転出にともない、朝鮮より中江藤樹の11代日の末孫である中江勝[すぐれ]が聘[へい]せられた。以来新制高島高等学校に衣更えされるまでその職にあり、名実共に中江藤樹の「致良知」の教えを土台とする良妻賢母をめざすことを校風とした。


 太平洋戦争への突入
 昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入し、18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が示され て、いよいよ教育の現場も戦時体制が強められていった。これは、国民学校高等科以上の生徒を軍需[ぐんじゅ]工場へ動員し、日曜も休業しないという厳しい指令であった。19年4月には、学則が改正され、軍事教育の徹底強化が国民学校高学年にまで拡大されることになった。高島町においても、従前は学校田における生産教育や農繁期の手伝い程度であったが、それからは女学校の生徒は都会の軍需工場へ、国民学校高等科生も萩の浜の寺内工場へと本格的に動員された。初等科の学童まで空襲に怯えながら湖畔の松林に出かけ松根採取にあたった。
 昭和19年の7月ごろになると、大阪の空襲も激しくなり、もはや十分な教育は行われない状態となって学童疎開[そかい]が始まった。高島町へも、萩の浜にある大阪市所有の道場[どうじょう](現大阪市立青年の家)や県立藤樹女学校などに、大阪の堂島小学校6年114名が疎開してきた。女学校では、女生徒が名古屋や堅田の軍需工場に動員されたため、空室となった裁縫室に疎開児童が収容された。父母の膝下[しっか]を遠く離れて疎開児童の耐乏生活が敗戦までつづいたのである。その間の学業は、それぞれ受け入れ先の高島第一・第二国民学校に入校して、付添教師の手によって細々と続けられた。


 新制高等学校への統合
 県立藤樹高等女学校の閉校
 昭和23年4月、新制高等学校の発足にともない、県立藤樹高等女学校は旧制今津中学校が県立高島高等学校に改称・発足するにあたって高島高校に統合され、安曇川以南の男女生徒を収容する同校高島校舎となった。その後25年4月1日、高島校舎は廃止されて本校に統合される。ここに町立実科高等女学校の開校以来、23年にわたった女学校の歴史は閉じたが、校舎は新制高島中学校に転用されたのである。


高島町発行「高島町史」より